vol.29 「感受性」と「感情」
その昔、インスタントコーヒーのCMで有名になった「違いがわかる男の」というキャッチコピーがありました。スイスの会社ネスレが製造販売する商品「ネスカフェ」ですね。
話はいきなり脇道に逸れますが、ネスカフェと言うと個人的にはイランの旅のことが思い出されます。20年くらい前、皆既日食を見るツアーに参加してイランに行ったのですが、それは僕のはじめての海外旅行でした。有名なイスファハン(エスファハーンというほうがよりペルシャ語に近いようです)のイマーム広場を歩いていたら、イラン人の男性に声をかけられました。日本語が堪能で、前に名古屋で働いていたとのこと。
その彼がお茶に誘った言葉が「ネスカフェを一緒に飲みませんか」だったのです。ついて行ってみたら、出てきたのはインスタントではなく、ふつうのコーヒーでした。どうやら、現地ではコーヒーそのもののことをネスカフェと呼んでいるようなのです。その他、イランのいろんなところで僕を見た人に「ウシン」と言われたり、面白いことばかりの旅でした。ちなみにウシンはNHK連続テレビドラマ小説「おしん」のことで、イランでも放送され大人気だったのです。だから日本人を見るとウシンと言ってしまうらしい。閑話休題。
ネスカフェのCMの話に戻ります。放送当時、日本の誰もが知っていたと言っても過言ではない「違いがわかる男の、ゴールドブレンド」というコピーですが、僕は子どもの頃からなぜかとても苦手でした。そのCMは要するに、ネスカフェゴールドブレンドは上質の製品で、そのクオリティを見分けることができる人こそが楽しめるものなのだ、ということを謳っているわけです。そうやって「(この製品を購入してくれる)あなたは、わかっている人なんです」って優越感をくすぐる宣伝が効いた時代もあったんですが、今見たらやっぱりちょっと「昔のやり方だなあ」って感じますよね。
“違いがわかる男の”というキャッチとともに有名なCMソング「めざめ」。
作曲はジャズと映画を股にかけた天才作曲家、八木正生です。スキャットは伊集加代子
実際このコピーは「スノッブだ」という批判も根強くあって、今ではもう使われていません。スノッブというのは「教養や知識をひけらかす、鼻持ちならない感じ」というような意味です。今で言うところの「マウント」に近い感じでしょうか。マウントって、今すごくダサいですよね。あと、違いがわかるようなセンスを持っているのは男だけなんかいっていうフェミニズム的なツッコミもあったと思います。ただ、僕がこのコピーを嫌っていたのはそういう理由ではなかったようなのです。
今思えば、本物がわからない自分に心のどこかでコンプレックスを感じていたのではないかと。「はいはい、僕はどうせそんなのわかりませんよ、パチパチ!(拍手)」と拗ねていたのです。それくらい、僕は感受性が鈍い。例えば、執筆のあいだ適度に雑音に包まれたほうが集中できるのでよくカフェに行くのですが、どの店でどんなコーヒーを飲んでも「うん、コーヒーだな」くらいにしか感じていません。たまに違うメニューを頼んだりするのも、こだわりとかではなく、単なる気分です。
品質がいいかどうか、銘柄は何か、香りの違いはあるかとか、ほとんど感じ取れません。某チェーン店では注文の際「本日の豆は○○○になっています!」と店員さんがさわやかに説明してくださるのですが、飲んでも違いがよくわからないので「へえ、そうなんだ」くらいにしか聞いていません。同じように、水、ビール、お米、お茶などなど、微妙な違いの中に生まれる豊かさを、あまり楽しめているとは言えません。海外取材では訪問先でよく地ビールを飲むのですが、別に味の違いを楽しんでいるのではなく、地ビールを飲むというオシャレっぽい行為がしたいだけのミーハーです。
そう言えば、ジャズの歴史的大作曲家デューク・エリントンにこういう名言があります。「音楽には二種類しかない。いい音楽と悪い音楽だ」。うーん、この言葉も苦手なんですよね。コンプレックスはさておき、僕の中には「目の前のものがいいものかどうかって、そんなに大事なことなのだろうか?」という疑問が根強くあるんです。そもそも「いいもの」って何なんでしょうか。
デューク・エリントン・オーケストラ、1962年の演奏。
古き良きビッグバンド・ジャズですね
例えば、音楽のジャンルと同じようにリンゴにはたくさんの品種があります。食べた時に甘さや硬さについて何かぼんやり感じることがあっても、いつも食べている○○にくらべてどれくらい甘いか硬いかということまでははっきりわからない。僕がリンゴを食べる時は、一緒に住んでいるパートナーとシェアすることが多いのですが、彼女に「これは、○○より甘くて後味がさっぱりしているねえ」と言われても「あ、そうなんだ?」という感覚しかありません。ただ、「この品種は好きかも」という感情ははっきりと感じます。
感受性が鈍い人でも感情は誰しも鋭敏なのです。理屈じゃないんですね。何だかよくわからないけれど好ましいものに触れたり人と会った時に「好きだな」とはっきり感じられれば、人は充分しあわせなのではないかと思います。それが実際に「いいもの」だったり「優れた人」かどうかを問うのはあまり意味がないのでは。
前もって口コミを見たり、スペックを確認したりするのはリテラシーとしては良いのですが、そうした情報と紐づけされないと楽しめなくなってしまったら本末転倒です。ほんとうは好きだったかもしれないのに「だってアマゾン・レビューでぼろくそに書かれていたから、この映画は良くないのかもしれない」とか感情が薄まってしまうの、なんか悲しいじゃないですか。情報化社会の功罪というやつですね。
リンゴだって、日本で一番出荷されている品種「だから」好きとかってないですよね。かじった時に生まれる感情がすべて。感情は不安定なものなので、前にあまり好きじゃなかった品種がその日はなぜかおいしく感じるとか、矛盾していることもあります。それでもいいんじゃないですか。その時「好き」と感じたなら。その瞬間の感情に素直でいられるなら、しあわせな人生を歩めるような気がしています。
ちなみに、僕はあまり音楽の感受性も鋭くないです。選曲家としても仕事しているのに無責任かもですが、別に「いい音楽」「普遍的な価値を持つ本物」だからすすめているわけではなくて、単に「好き」だからです。好きな音楽がたまたま、ポーランドのジャズという「情報が少なく知っている人がいない」「誰も薦めていない」ニッチなジャンルだったから仕事として成立しているだけ。そういう需要が、意外とあるんですよ。
なので、人が好きと感じられるものの選択肢・多様性を広げるという気持ちで音楽ライター業を続けています。リンゴの珍しい品種を育てている農家さんもそういう気持ちなんじゃないかと、勝手に想像しています。違ったら、すみません。
2020/6/23