vol.27 卵とリンゴのための
日本人のジャズサックス奏者と言えば、誰が思い浮かびますか? 渡辺貞夫の名前を挙げる人は多いでしょう。CMなどに出演することもありますし、国内外の超一流ミュージシャンたちとの共演を中心に、90歳近くの今もなお現役バリバリのレジェンドです。ファンの間ではナベサダの愛称で呼ばれることが多いです。ちなみに僕のオススメのナベサダ作品は1974年のライヴアルバム『ムバリ・アフリカ』です。
一頃メディアへの出演などをきっかけに一気に知名度を高めたMALTAなども「あの人知ってる」候補かもしれません。故・伊丹十三監督の『マルサの女』をはじめとした映画音楽・ドラマ劇伴などの世界でも成功した清水靖晃もサックス奏者です。清水さんと言えば何と言ってもバッハの無伴奏チェロ組曲のテナーサックス編曲版が有名です。ただ、彼をジャズサックス奏者という狭い枠組みにくくってしまうのは無理があるかも・・・。
清水靖晃のバッハ無伴奏チェロ組曲
しかし、40代以上の年齢の人限定でこの質問をしたら、「あの人」の姿を思い描く人の割合がダントツ一位なのではないでしょうか。あの人とは、坂田明です。回答者が40代以上に限るのはなぜか。1985年から放送開始になった平日夜10時の報道番組「ニュースステーション」に坂田さんがよく出演していたからです。ニュースステーションは当時大人気だった久米宏がメインキャスターとして鳴り物入りで開始された朝日放送の顔とも言える番組で、後続番組の「報道ステーション」をはじめ、日本の夜のニュースの定型を作り出したとも言われています。
そんな人気番組になぜか突然出演を開始した坂田明。僕もニュースステーションで坂田さんを知った人間ですが、はじめて彼が出演した時、一緒に観ていた父が「うわっ、坂田明や。ふつう、ニュース番組にこんなすごい人が出えへんで」とえらく喜んだのをおぼえています。番組を観ている限りでは、ちょっと農家の人っぽい朴訥なルックスの、ひょうひょうとしたおじさんという感じなのですが、ジャズファンだった父は、彼の「真の姿」を知っていたのです。
近年はグラミー賞にもノミネートされた挾間美帆などのように、日本人ジャズミュージシャンの海外進出および最前線での活躍も珍しくなりましたが、90年代くらいまでは「日本はジャズ後進国」「日本のジャズはアメリカの真似」的なイメージが強くありました。ミュージシャンの側にも、まず日本でトップになって、アメリカでも勝ち上がるという目標を持っている人が多かったと思います。ただし、これは日本に限った話ではなく、ジャズシーンを擁する世界中の国でそういう考えがありました。しかし一方で日本は、ジャズ喫茶という、世界的に見て独自の文化が育つ国でもありました。
グラミーノミネートされた挾間美帆の「Dancer in Nowhere」。国立音大卒の大先輩、山下洋輔が彼女のジャズ界入りを強く後押ししました
しかし坂田明は、ニュースステーションに登場して「お茶の間」的知名度を獲得するずっと前から、世界のジャズミュージシャンに尊敬のまなざしで見られる存在だったのです。彼はヨーロッパを中心に世界中に衝撃を与えた「山下洋輔トリオ」のメンバーとして、その名を轟かせていました。山下洋輔は麻布高校&国立音大の作曲科卒で、現在のインテリ&アカデミックなバックグラウンドを持つジャズミュージシャンの草分けと言っても良いレジェンドですが、トリオ時代の演奏はすさまじいフリージャズで、坂田やドラムの森山威男らメンバーと繰り広げるパワフルなステージは、各地でショックを与えました。
坂田在籍時代の山下洋輔トリオ伝説の名演「キアズマ」
山下洋輔は当時のツアーの様子などをエッセイの形で雑誌などに発表して、そちらでも人気を博しました。彼は、南博や菊地成孔など文筆家としても高い評価を得るジャズミュージシャンの元祖でもありました。一方の坂田は、広島大学水産学部卒業という珍しい出自を持ち、ミジンコ研究家としても名を知られています。後に、東京薬科大学の客員教授にも任命されたりしました。さて、地味なルックスながら何だか妙にメディア映えする坂田さんが出演したある番組の再放送を観ていたら、こんな言葉に出合いました。
「私たちの演奏する音楽は、卵とリンゴのための音楽だと言われたよ」
この番組は、「世界・わが心の旅 ベルリン すべては壁から始まった」です。山下洋輔トリオのツアーなどでベルリンの壁崩壊前の東欧圏に訪問経験のある坂田さんが、冷戦終了後の1997年に、かつて東独時代に共演したベルリンの演奏仲間を訪ねるという紀行番組でした。上の言葉は、番組で坂田さんが会いに行くドイツ人ミュージシャンのひとり、ピアニストのウルリッヒ・グンペルトが口にしたものです。
卵とリンゴのための音楽とはどういう意味なのか。グンペルト曰く、卵とリンゴはとても安く手に入るもので、つまりそれくらいの稼ぎしか得られない、お金を稼げない音楽ということだそうです。番組は、旅人である坂田さんのひょうひょうとしたムードが救いになってはいるものの全体的に物悲しく、時代の波にさらわれ、変化に取り残された人々との再会はちょっと切ないです。中には、体を壊してもう演奏ができなくなった旧友もいて、さすがの坂田明も痛ましさに絶句するシーンもあります。
それにしても、リンゴの拡散力のなんとすごいことでしょう。金にならない音楽の例えに使われたのはちと残念ではありますが、裏を返せばどんなに貧しくてもリンゴだけは何とか食べられるというほどに、たくさん収穫されているということでもあります。つまり、これまで歴史の中で表舞台に上がることなく消えて行った膨大な数の「売れないミュージシャン」や、今の成功者たちの貧乏時代の食生活をリンゴが支えていたと言い換えてもいいんじゃないでしょうか。リンゴでしのげなかったとしたら、とっとと音楽の道をやめていたかもですし、第一亡くなってしまっていたかもしれない。安価なリンゴは、売れない音楽文化を人知れず守っている果物なのです。
2020/4/17