vol.9 「名手と名器」~選ばれた味と音
先日歌舞伎俳優の中村七之助がナビゲーターを務めるBS-TBSの旅行番組「美しい日本に出会う旅」を見ていたら、北海道新幹線開通記念で青森県の津軽地方と函館を特集していました。最初に出てきたのが弘前のリンゴ農家さんで、リンゴにまんべんなく日光が当たるように木の枝をカットするためのリンゴ剪定鋏を「サラリーマンのネクタイと同じように、いつも身につけているもの」と例えていました。
こうしたリンゴ農家さんがたくさんいるという環境だからか、番組では弘前市に鍛冶屋さんが5件もあるのだと紹介されていました。制作過程を映しながら完成したリンゴ剪定鋏は、なるほどよく切れそうで、美しかったです。リンゴ農家さんたちの厳しい目が育て上げた機能的な美だと言えましょう。
「弘法は筆を選ばず」ということわざがありますが、ほんとうは選びまくるというのはもう世の中の常識ですよね。名人や職人は、仕事で使う道具にとてもこだわっています。実際はその仕事に精通したプロでなければ、良い道具を選ぶことすらできないのです。これは、音楽の世界にも通じます。
ところで、この世の中には「自分の趣味で楽器を演奏していたことがある」という人はどれくらいいるのでしょうか。私は1989年に高校生になりました。この年は要するに平成元年で、私の代は平成最初の高校生だったんです。その頃ちょうど日本の音楽史的には「第二次バンドブーム」というムーヴメントが起こっていました。そして私たちは1970年代前半の「第二次ベビーブーム」の申し子でもありました。要するに生徒数が多かった。私の高校では一学年12クラス、一クラスあたり50人前後もいました。今とは大変な違いですよね。そして全生徒数の分母が大きい分、楽器を弾く生徒も多かったんです。私は高校入学後軽音楽同好会、通称「軽音」に入って念願のベースをはじめました。
軽音に入部してきた理由は人数が多いぶん皆さまざまで、私のように「ポリスのスティングがかっこいい!」といった、ただミーハーなアーティスト個人への憧れもあれば、コピーして演奏したい曲がある奴、小中学生の頃から楽器を弾いていたからという自然な流れの奴、お決まりの「モテたい」という奴、いろいろでした。そんな多彩なメンバーは当然好きな音楽も違うし、思春期で性格がギラギラしている時期でもあるので、そんなに話題が共通するというわけでもありません。しかし、ひとつだけみんなが一緒に盛り上がれるネタがあるのです。それが「楽器ネタ」でした。
楽器を演奏する人にとって「ミュージシャン」と「どんな楽器を使っているのか」は常にセットのトピックなのです。というわけで、音楽界で有名な「名人と名器の名コンビ」を少しご紹介します。
ジャズ界最高のギター奏者のひとりで、アメリカ史に残る作曲家でもあるパット・メセニーが弾く中でも、ものすごく有名なのが全部で42本の弦が張られている「ピカソ・ギター」です。リンダ・マンザーという女性の弦楽器職人さんが制作した芸術級の逸品です。これは実際に弾いているところを見なければ絶対に想像できないものなので、下の動画をどうぞ。ポーランドのヴォーカリスト、アンナ・マリア・ヨペクとのデュオです。
では名器をもう一本。日本の上原ひろみや矢野顕子、ドミニカ共和国のミシェル・カミロといったテクニシャン・ピアニストのトリオを支えているのがベースの名手アンソニー・ジャクソン。彼が弾いている楽器がまたすごい名器なのです。フォデラというメーカーの「エレクトリック・コントラバス・ギター」。これもまた動画なしでは説明不可なので下の動画をどうぞ。
最後に、この「名手と名器」コンビを。今年10月に来日して4つのコンサートを行う予定のブラジルのギターの名手トニーニョ・オルタ。彼は最初にご紹介したパット・メセニーもこよなく尊敬する大作曲家で、ブラジル音楽ファンにとっての神様のひとりです。そのトニーニョは、日本のギター工房「福岡ギター」の手による名器を使用しています。こちらは動画ではありませんが、その福岡ギターを全面的に演奏した弾き語りライヴから一曲どうぞ。ジャケット写真に写っているのも福岡ギターらしいです。トニーニョが思う「この楽器でしか出せない響き」を想像しながら聴いてください。
話をリンゴと「美しい日本に出会う旅」に戻しましょうか。番組ではアップルパイにぴったりなのは酸っぱい紅玉だと紹介していました。リンゴを使った料理やお菓子と品種の関係もまた「名手と名器」の関係に例えられるのではないでしょうか。シードルにはサンふじとか、アップルジュースには「トキ」や「きおう」「王林」など、それぞれよく合う品種があるようです。最近では、紅玉とウースターペアメンの交配種「あかね」を使ったジャムが 甘さ控えめでおいしいと話題になっているようですよ。
製作に関わる職人さんたちが試行錯誤した結果選ばれたものには、名器の貫禄がありますね。もちろん、他の組み合わせや楽器を試して、また新しい味や音色の魅力を作り出す名人もいます。和食に合うシードルとして、番組ではタムラファームさんのシードルも紹介されていました。普段何気なく見ているリンゴを使った商品にも「弘法が筆を選んだ」名人の技の冴えが光っているんです。今度そういう商品を手に取った時に原材料表示の品種名をチェックしてみる楽しみが増えましたね。
2016/6/25