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第30回 乗り越えたリンゴの危機

 日本のリンゴ生産量は、年による変動があるものの、2016~2020年産を平均すると77万4,240トン(青森県は43万6,400トン)である。

 全国の58.6%を生産する青森県のリンゴ園は弘前市を中心とする半径15km以内の津軽平野周辺の台地と傾斜地、岩木川の河岸に集中的に分布している。この地域で県全体の80%のリンゴが生産されている。

 比較的狭い範囲の中で世界有数の集団地を形成していることから、この地域の気象環境がリンゴ栽培に好適と考える人が多いと思うが、決してそうではない。

 世界の主要産地の気象をみると、樹の成長と果実の生産に関係の深い4~10月(生育期)の降水量は300mm以下である。日照時間は2000時間を超える所が多く、かん水さえすればリンゴは「楽々となる風土」である。

 しかし、津軽地方の場合、気温はまずまずの好適条件であるが、生育期の降水量は800mmを超える。このように降水量の多いリンゴ産地は世界的にみて例がなく、日照時間も1300時間である。

 このような多湿・少日照下でのリンゴ栽培は、病害虫防除に多大なコストを必要とする。青森県は「リンゴを苦労してならす風土」と言ってよい。

 リンゴ栽培にとって必ずしも好適でない青森県が、どうして日本最大の産地を形成したのか。リンゴ栽培を開始して以来、ほとんど国の保護のない状態におかれた生産者が「青森県からリンゴをとったら何が残るのか」との気概で、幾多の生産危機を乗り越えてきた英知とバイタリティによるものと思われる。

岩木山を望む津軽のリンゴ園

1.大正期の生産危機

 大正期の生産危機を迎えて、青森県当局とリンゴ関係者はこれまでの体験的栽培技術と病害虫防除だけでは乗りきれないと考えて、果樹園芸学の専門家を招くことにした。

 当時のリンゴ生産構造を徹底的に洗い出し、根本から栽培を見直すことを任務として、北海道大学助手から島善鄰(しま・よしちか)が1916年4月に苹果栽培調査技師として青森県農事試験場園芸部に着任した。島は1927年に北大助教授として復帰するまで青森県のリンゴを立て直すために全力を投入した。1950年には学長に就任し、全国のリンゴ生産者から「リンゴの神様」と慕われた。

 島は当時のリンゴ園の実態について、「当時現地を踏査して驚かされたことは、なんと言っても猖獗きわめた病害であった。初夏の頃リンゴ園に入って耳に聞こえるのは、蚕室で感じる老蚕の桑を食べるあの音であったと言えば、凡そ想像がつくであろう。真夏になれば緑葉は黄褐に変じ盛んに落葉する。やがて初秋の候ともなれば、最早や梢端に数葉を止めるだけで、冬枯れの光景を呈するといった始末である。之では花芽が着くわけもなく、多少成っても果実も大きくなる訳がない。」と述べている。

猖獗(しょうけつ):悪い物事がはびこり、勢いを増すこと。猛威をふるうこと。

 1917年、島の2年間にわたるリンゴ不作の調査は、10万語に及ぶ「青森県苹果減収、原因及其救済策(青森県立農業試験場)」として出版された。

 この調査報告にもとづいて、①病害虫防除の徹底、②過大園、廃園の整理、③肥培管理の充実の三大目標がたてられ、1918年から青森県当局、リンゴ関係者あげての栽培改善運動が展開された。

 1918年11月、青森県農事試験場は「苹果病害虫予防駆除剤」という生産者向けの小冊子を刊行配布した。その中に島の発案による「苹果病害虫防除暦」が3頁にわたる表と2頁にわたる説明文がのっている(表1)。これがわが国最初のスプレーカレンダーである。この暦は1924年から1枚刷りの暦スタイルになり、現在も毎年発行されている。

 これらの努力は、その後見事に開花し、昭和初期の著しい生産増をもたらした。

(表1)苹果園病害虫防除暦1918(大正7年)

青森県りんご百年史より

2.太平洋戦争(1941~1945)による荒廃

 1942年の青森県リンゴ生産量は21万6,300トンと、それまでの栽培史上最高を記録した。その後、生産量は減り続け、敗戦の年1945年には1万3,300トン(平年作の20%)の大不作となった。農薬不足による病害虫対策が無防備状態であったことが最大原因である。

 その他大不作の要因としては、開花期の不順天候、肥料不足による樹勢の低下、豪雪による雪害、石油不足で動力噴霧器が動かなかったことなどが上げられる。

 1944・45年度の青森県苹果試験場(現在のりんご研究所)の業務年報には「肥料不足による樹勢衰弱は紋羽病を誘発し、山手で被害大である。リンゴハマキモドキの被害により2000haが廃園状態になる。また、南・中部の山手にはピストルミノガが大発生し、夏季にはほとんど落葉し剪定当時の様相のものも少なからずあった。」と記載されている。

 あと2~3年も戦争が続けば青森県のリンゴの樹はほとんど枯死するところであった。

 また、太平洋戦争中は食糧増産と労働力不足のため、リンゴは不急不要作物だとされ、新植が禁止されたり、リンゴ園を間伐して雑穀を間作することが勧められリンゴ生産者は肩身のせまい状態であった(当時の新聞記事)。

戦時中の新聞記事

3.リンゴとコメ

 弘前市でリンゴ(西洋リンゴ)が初めて結実してから146年経過した。この間に、コメもリンゴも同時に不作となった年はまれである。コメとリンゴの作況が明らかになるのは、1891年からであるが、2004年までの113年間に作況指数が70を下回る不作年は、イネが11回、リンゴは12回であった。しかし、イネが悪い年にはリンゴが良く、リンゴが悪い年にはイネが良いという関係がはっきりしている。唯一、イネもリンゴも大不作であったのは敗戦の年、1945年である(図2)。

(図2) リンゴの不作年とコメの不作年の関係
(波多江編.1985.近代青森県米及びリンゴ作況年表より作図)

 過去におけるリンゴ不作の最も大きな原因は、リンゴの葉、花、幼果を次々と侵すモニリア病によるものであった。リンゴの風土病といわれたモニリア病は、津軽に多い排水不良土壌で、開花期から幼果期における低温、多湿によって助長される。1963年にモニリア病の特効薬ともいえるジクロン・チウラム剤が防除基準に採用されて以来、今日ではほぼ終息し、この病気による不作は全くなくなっている。

 イネが不作となる主な要因は、7~8月の降雨に伴う日射量不足と低温があげられる。この時期のリンゴは果実生育の最盛期で、多量の水分を必要とするのはもちろんであるが、気温の点から見ても、イネにとって低温であるが、リンゴには適温の範囲であることが多い。また、7~8月に低温・多湿の場合は初秋に晴天が続くことが多く高品質のリンゴが収穫されることもある。

 このように、春の低温・多湿がリンゴの作柄、7~8月の低温・多湿がイネの作柄を決める最大の要因である。

 青森リンゴはイネの補完的役割を果たしながら発達した産業であるが、もう一つの背景には、リンゴ栽培の有利性もあった。1902年のイネ凶作の折、8haの水田から上がった収益が、わずか30aのリンゴの収益に及ばなかったという記録がある。昭和恐慌の時にイネ農家が大挙してリンゴ栽培に入ってきたのも、ひんぱんに起こる冷害の恐怖から逃れようとした悲願があったのであろう。

イネとリンゴ

参考資料
1. 青森県りんご百年記念事業会:青森県りんご百年史 1977
2. 青森県りんご試験場:青森県りんご試験場50年史 1981
3. 島善鄰先生生誕百年記念事業発起人:島善鄰先生生誕百年記念誌 1989
4. 波多江久吉編:近代青森県米及びりんご作況年報 青森県りんご協会 1985

(2023/7/7)

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プロフィール

一木 茂

元青森県りんご試験場長。現在はりんごについて広めるべく、筆を執る。

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