Vol.9 真っ赤なりんごと赤い唇の女の子
■1939年の映画『オズの魔法使』とりんごの木
それは、1939年に製作された映画『オズの魔法使』を初めて見たときのこと。主人公の少女ドロシーがセピア色の嵐を抜けたとたん、色に溢れた世界が待っていた。見たことのない景色に呆気にとられるドロシーと一緒に、私もまた、突然現れた色彩の饗宴ぶりに呆然と見入ってしまった。10歳のドロシーがひょんなことからオズの魔法の国に迷い込むこのおとぎ話は、児童文学からミュージカルまで、世代を問わず多くの人々に愛され続けてきた。脳みそを欲しがるカカシ。心臓が欲しいと願うブリキ男。勇気を望むライオン。そして大好きな家族が待つ家に帰りたいと望むドロシーは、オズの魔法使いを訪ねて旅に出る。映画版では、ドロシーがカンザスで暮らす様子はモノクロ(セピア)で、オズの国ではカラーで映され、不思議の国オズの色鮮やかな様子が際立つよう工夫されていた。その手法に、私はまんまと驚かされたというわけだ。
オズの魔法使いが住むエメラルドの都へ向かう途中、ドロシーはカカシと出会い、彼と旅の仲間になる。陽気に歌いながら歩くふたりは、やがて見事に実ったりんご畑に遭遇する。お腹をすかせたドロシーは大喜びでりんごをもごうとするが、突然、どこからか怒りに満ちた声が響く。「勝手にそんなことをしてただで済むと思うのか!?」いったい誰が、と慌てて周囲を見渡すも誰もいない。たしかに声が聞こえたはずなのにと、ふと目を上げると、りんごの木がじっとこちらを睨み付けている。声の主は、りんごの木そのものだったのだ。「誰の許しを得て人の物を盗むんだ」と怒りをたぎらせるりんごの木を相手に、幼いドロシーは動転するばかり。「ごめんなさい、あんまり美味しそうだったものだから…りんごを食べたい時はどうしたらいいの?」と尋ねるが怒れる木々は聞く耳をもたない。そこでカカシが機転を利かせ、わざと挑発的な言葉を投げかけ木の怒りを誘う。怒りに燃えた木々は「さっさといなくなれ」とばかりにりんごを投げつける。おかげでドロシーたちはまんまと美味しいりんごを手に入れるというわけだ。ふたりは真っ赤なりんごを片手に、〈りんごの木の下でまた会いましょう〉と歌いながら畑を後にする。
『オズの魔法使』にりんごが登場するのはこの1シーンのみ。それでも、丸々としたりんごが強い印象を残すのは、やはり色のせいだろう。赤、青、緑、黄、ここには鮮やかな色が溢れかえっている。オズの魔法使いが住むのは、エメラルドグリーンに覆われた街。ドロシーたちが歩くのは黄色いレンガの道。水色のワンピースを着たドロシーの足には、ルビーの赤い靴。うっかり家の下敷きにしてしまった東の魔女から奪った魔法の靴で、これを履いたがゆえに、ドロシーたちは西の魔女に狙われている。ドロシーの唇を覆う真っ赤な口紅も印象的だ。こんな華やかな世界で赤々と輝くりんごが登場したら、ドロシーでなくても思わず手を伸ばしてしまいそう。
■伝記映画『ジュディ 虹の彼方に』
さて、話は変わって、先日のアカデミー賞授賞式のこと。韓国映画『パラサイト 半地下の家族』の4冠制覇(作品賞・監督賞・脚本賞・国際映画賞)で大いに沸いた授賞式だが、主演女優賞を獲得したのは、『パラサイト』ではなく、伝記映画『ジュディ 虹の彼方に』に主演したレネー・ゼルウィガーだった。『ジュディ』は、映画女優で歌手でもあったジュディ・ガーランドの伝記映画。子役としてデビューし、1969年に47歳の若さで亡くなるまで、40年以上にわたって活躍したジュディだが、物語は彼女が亡くなる半年前、1968年冬のロンドンでのツアーの様子にスポットをあてる。
ジュディ・ガーランドの名前を一躍有名にした作品こそ、『オズの魔法使』だった。彼女はドロシー役でハリウッドの歌って踊れる名子役として名を馳せる。その後も『若草の頃』(1944年)『踊る海賊』(1948年)『イースター・パレード』(1948年)などヒット作に数々出演した。『スタア誕生』(1954年)ではアカデミー賞主演女優賞にノミネートされるもまさかの落選。だがその演技力は周囲から絶賛された(本作は先日レディ・ガガ主演の『アリー スター誕生』としてリメイクされた)。その一方で、彼女には常に悪評がつきまとった。原因は、遅刻常習癖と浪費癖。五度の結婚も悪い噂に拍車をかけたかもしれない。やがて映画会社からも見放された彼女だったが、歌唱力を生かし、晩年はツアーやコンサートに活路を見いだす。心身共に疲れ果てた彼女を支えたのは映画時代からの根強いファン。ジュディもまたファンに大きな希望を与え続けた。同性愛者たちから絶大な人気を誇った彼女は、今も性的マイノリティ層の象徴的存在だ。
『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001年)などのヒット作で知られるレネー・ゼルウィガーが演じたジュディは、冒頭からひどく疲れた顔をしている。周囲の心ない噂。たまる一方の借金。愛する子供たちの親権をめぐる元夫との諍い。様々な問題が小さく痩せた体にのしかかり、困り果てた彼女はロンドンでのツアーに出ることを承諾する。ここでお金を稼げれば、家を買い、子供たちと一緒に落ち着いた生活を送ることができるはず。そんな希望を胸に、彼女は単身、ロンドンへ向かう。だが事はそううまくは運ばない。ロンドンでのツアーをスタートさせたジュディは、圧倒的なパフォーマンスで観客を魅了するが、もともと不安定だった精神状態はますます悪化していく。薬とアルコールに頼り、またも遅刻癖がぶりかえす。その様子を、世話係に任じられたロザリンは、ときに心配そうに、ときに苛立ちながら見守っている。
■『ジュディ』の中で描かれる『オズの魔法使』
基本的にツアーでの時間が中心となるこの映画のなかで、ときおり、ジュディの若き時代のエピソードが挿入される。なかでも目を引くのは、16歳で出演した『オズの魔法使』撮影時のできごと。だが『ジュディ』のなかで描かれる『オズの魔法使』撮影エピソードは悲惨きわまりない。実は、ジュディが演じたドロシーの役にはもともと、すでにスター子役であったシャーリー・テンプルが予定されていたという。お前はシャーリーほど可愛くもないし歌もうまくない、しかも体型は太り気味、それでもこんなにいい役を与えてあげたのだから、さあ私たちのために精一杯働くんだ。そんな酷いことを映画会社社長から言われ続けたジュディ。ダイエットと過密労働のため、10代の頃からドラッグを飲まされ続けた彼女が、そのために後年苦しむはめになったのは有名な話。
真っ赤なルビーの靴を履き、可愛らしいおさげを結った少女は、きらびやかな映画の世界にいてもちっとも幸せそうに見えない。幼いジュディは、常に不安そうに目を泳がせている。お願いだからもう少しだけ寝かせて。好きなようにごはんを食べさせて。友達くらい自分で選ばせて。そんな小さな願いすら大人の都合ですべて握りつぶされる。少女は、やり場のない怒りと悲しみをひとりため込むしかない。そうして、大人になったジュディは長年ため込んだ怒りと悲しみによって苦しみ続ける。あれほど陽気で幸福でカラフルなおとぎ話の裏側には、こんなにも残酷な物語が隠されていたのだ。理不尽な目にあい、傷つき疲れ果てたジュディ。もしかすると、マイノリティの人々が彼女を熱狂的に支持したのは、他人によって人生を奪われた、その残酷な運命に深く共感したからかもしれない。なぜなら彼らもまた、他人によって人生を奪われた人たちだから。
傷つき、ぼろぼろになったジュディが、それでも立ち上がり、ステージの上では堂々とパワフルな歌声を響かせる。彼女とファンたちとを繋ぐのは、強い絆と、「オーバー・ザ・レインボー(虹の彼方に)」。『オズの魔法使』でジュディが歌っていた曲だ。ここではないどこかでならきっと誰もが幸せになれるのに、と彼女は歌う。『オズの魔法使』の最後、ドロシーは「ここではないどこか」ではなく「ここ」にこそ幸せはあったのだと気づく。同じように、ジュディもまた、今ここにある幸せを見つけることができただろうか。その答えは映画を見てもらうとして、ジュディの唇は、ここでもやはり真っ赤に光り輝いていた。
2020/2/21