Vol.2 りんごは、大人と子どもの友情を紡ぐのか?
りんごを手にした子どもたち。その光景を想像するとふと笑みがこぼれそうになる。子どもとりんごという組み合わせに、純真無垢さの象徴を感じるからだろうか。子どもの手に握られると、小さなりんごでも妙に大きく見える。そのアンバランスが可愛くもあり、どこか懐かしい気持ちにもさせられる。
古今東西、大好きな映画は山のようにあるけれど、そのなかでも不朽の一本がある。スペイン映画『ミツバチのささやき』(1973年)。監督は、ビクトル・エリセ。1940年頃、スペインの小さな村を舞台に、養蜂場で働く父と母、小さな娘たちが紡ぐ静かなドラマ。妹のアナは、村の公民館でフランケンシュタインの映画を見て以来、その不思議な怪物にすっかり魅せられてしまう。姉イザベルから、フランケンシュタインは怪物ではなく本当は精霊で、村はずれの一軒家に住んでいるのだと冗談半分に教えられたアナ。ある日ひとりでその一軒家を訪ねると、そこには傷ついて眠るひとりの男がいた。はっきりと説明はされないが、この男はどこかから逃亡してきた兵士らしく、脚を怪我してこの家に隠れていたのだ。だがアナは男を精霊だと信じ、持っていたりんごをそっと手渡す。兵士は驚きながらも、空腹からそのりんごにむしゃぶりつく。
映画で描かれるのは、スペインで内戦が終わり、フランコによる独裁が始まった時期。小さな村にも、独裁の暗い影がしのびよる。その様子を、映画は直接的にではなく、少女と兵士の交流を通してファンタジックに映し出す。まだ現実と夢の境目を知らない少女アナと、傷つき疲れ果てた兵士。アナの小さな手が差し出す黄色いりんごは、異質なふたりをつなぐ小さな希望となる。だがその友情も、厳しい現実の前にもろくも崩れ去るのだけれど。
子どもを純真無垢だと思うのは、大人の勝手だ。イランのアッバス・キアロスタミ監督は多くの傑作子ども映画を残したが、それらの作品に登場する子たちは、決して大人の思い描く純粋さを見せたりはしない。監督の長編デビュー作『トラベラー』(1974年)の主人公は、大好きなサッカーの試合を見るために、大人たち相手に嘘や言い訳をくりかえす。その無鉄砲さは手に負えない野生動物のよう。一方、友だちの大事なノートを返そうと必死で家を探す少年が主人公の『友だちのうちはどこ?』(1987年)では、大人たちの少年への態度があまりに厳しく、大人と子どもとはこんなにも意思疎通が取れないものかと驚いてしまう。同じキアロスタミ監督の『風が吹くまま』(1999年)では、やはりりんごを手に持った少年が現れる。小さな村の一風変わった葬式の様子を撮影しようとやってきたテレビマンの男。村までの案内をしてくれた少年は、毎朝男の家の下にやってきては「りんご食べる?」と差し出してくれる。最初は快く受け取っていた男だが、撮影が思うように進まずイライラが募るうち、ある朝「りんごなんていらないんだよ!さっさとどっかに行くんだ!」と少年を怒鳴りつけてしまう。翌日冷静になって謝るけれど、少年の無邪気な笑顔はどこかへ行ったまま。
りんごが紡いだ友情は、『ミツバチのささやき』でも『風が吹くまま』でも、結局は幻に終わる。でも大人と子どもの友情なんて所詮はそんなもの。年齢差を超えた友情は一見美しく見えるけれど、生きている世界が違うのだからそう簡単には続かない。そういえば、『キングス&クイーン』(2004年)という映画のなかで、元恋人の子どもに対して「大人と子どもは友だちになんてなれないよ」と語る人を見たことがある。君のことは大好きだけど僕は父親にはなれない。友だちにもなれない。だって大人と子どもは友だちにはなれないものだから。でも子どもには、親以外に頼ったり話をする大人が必要になる時がある。そういうときは僕を頼ってきたらいい。そんなことを語ってきかせる。
「子どもとだって友だちになれる」と豪語する大人よりも、きっぱりと「友だちにはなれないよ」と宣言する大人のほうが、よっぽど誠実かもしれない。そんなことを、りんごを手にしたふたりの子どもたちを見ながら思い出した。
2018/12/17