File#⑥ 楢木 正勝 Masakatsu Naraki
青森県津軽平野。世界自然遺産の白神山地を源流とする岩木川が流れ、栄養豊富で肥沃な土地は、古くから水田やりんご園が広がる自然豊かな場所。楢木正勝(ならき まさかつ)はそんな農業が盛んなこの土地で生まれ、りんご栽培に生涯を捧げています。
1938年(昭和13年)2月7日、弘前市三和地区、5人兄妹の長男として楢木は生まれました。祖父の代からりんごと米を栽培する農家で、男の子は楢木だけ、あとは妹が4人の兄妹だったので、自然と農作業の手伝いはしていたといいます。地元の小・中学校を卒業し、高校は東奥義塾高校へ進学しました。高校時代は剣道部で体を鍛え、全国大会へ出場するほどの成績を残しました。
高校時代の楢木(後列右から2番目)
1956年(昭和31年)、高校卒業と同時に跡継ぎとして就農しました。幼いころから農作業の手伝いはしていましたが、基本的な作業を見て覚える程度で、栽培技術を教わるということはほとんどなかったといいます。
「親父は酒飲みでさ、朝から晩まで酒飲んで、畑仕事も適当で、畑のことを教わったことはないな」
農家の跡継ぎといえば、父親と一緒に農作業をすることで、基本的なことから難しい技術的なことまで教わるものですが、楢木の場合、父親はあてにならない状況でした。でも周りを見るといいりんごを作っている農家や、同じくらいの規模の畑でも収量を上げている農家がありました。
「同じりんごを作っているのに、どうして違うんだろう」
他の畑に興味津々の楢木は、自分のやり方とはどこが違うのか、どのようにして作業を進めているのかなど、自ら出向いては技術を教わりに行きました。特によく通ったのが弘前市下湯口の岩崎農園です。文字絵りんごを作る第一人者として知られている岩崎博夫(いわさき はくお)氏は、通常の栽培でも品質のよいりんごを生産しており、度々訪れる楢木に対して、りんご栽培に関する様々なことを惜しげもなく教えてくれたそうです。楢木自身も、もっといいりんごをたくさん作りたいという一心で、跡を継いだ畑を守るために努力をし、栽培技術を習得していきました。
りんご専業農家としてのスタート
楢木家はりんごの他に水田も63アール所有していました。当時(1960年代前半)は日本の稲作が最も盛んな時期で、米は高く売れる時代です。農作業の機械化が急速に進む中、地域では一番にコンバイン(稲の刈取り、脱穀、選別を一度にできる機械)を導入しました。1963年(昭和38年)には木造町(現在のつがる市)の米農家から嫁いできたツヨさんと結婚し、りんごと共に米作りにも力を入れていました。
りんごも米も、代々続く田畑を守るだけでなく、常に先を見据えて時代にあった栽培を続けること25年目の1981年(昭和56年)、転機が訪れます。いち早くコンバインを導入し順調な米作りをしていて、実際、米も高く売れていた時代ですが、63アールあった田んぼをすべてりんごのわい化栽培に転作したのです。わい化栽培は従来の普通(丸葉)栽培よりもコンパクトな樹形で多くの本数を植える栽培様式で、作業効率がよく多収を見込めます。現在(令和元年産)では青森県のりんご栽培面積の24%まで普及していますが、当時はまだわい化栽培をはじめる園地はほとんどありません。米が高く売れる時代にわざわざりんごにするなんてと、周囲から笑われたといいます。この時、日本はすでに減反政策に乗り出しており、新規の開田禁止や、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入などが始まっていました。この減反政策は当時農家の反発が大きく、楢木の周りでも減反を希望する者はいなかったため、転作をすることにした楢木を理解するものはいなかったのです。
「りんごの苗木をたくさん買うために助成金を貰いにいったんだけど、そこでも笑われたんだ。いい田んぼなのになんでりんごにする必要があるんだ、って」
しかし楢木は周囲から笑われても迷うことはありませんでした。実は楢木の水田は地域一帯の水田の端にあり、水の引き込みが弱く他の水田に比べて栽培条件が良くなかったのです。コンバインを使用して作業効率は良くなったものの、栽培条件の悪さから手間はかかり、どこか限界を感じていた楢木はりんごを専門にしていこうと決意していたのです。唯一、家族からは理解され応援してくれたこともあり、他人に理解されなくても笑われてもその決意が揺らぐことはなく、どうにか助成金を貰うことができたそうです。
わい化栽培をはじめるにあたり、苗木を植える時には3人の子どもたちも一緒に、家族総出で行ないました。長男が苗木を植えるための穴を掘り、長女がその穴に苗木を植える、当時幼稚園の末娘も幼いながらも楢木のいいつけを守り、一生懸命手伝ってくれたといいます。こうして家族一丸となって定植し、りんご専業農家としての第一歩を踏み出したのです。
りんごのわい化栽培は支柱が必要で苗木の本数も多く、初期費用がかかりますが、普通(丸葉)栽培よりも早く収穫できるため、定植後7~8年程で利益が出るといいます。楢木は周りに笑われてまで水田から転作したりんご畑の、まずは安定した収穫量を目指して栽培に取り組みました。今までとは少し勝手が違う栽培方法で、まだ周りにもわい化栽培をはじめた農家はほとんどありませんでしたが、これまでの経験と勘、さらには他の畑に行って教えてもらったりして栽培を続けました。その甲斐あって楢木の畑はどんどんと収穫量を上げていきました。春先に近所の店から、その年のだいたいの収穫量を想定してりんご箱を購入するのですが、想定を上回る収穫で箱が足りなくなり買いに走ることも多かったといいます。
父親、りんご生産者、それぞれの役割
苗木の定植を手伝ってくれた子どもたちの理解もあり、これまで以上に農作業に勤しむ楢木ですが、主に作業をするのは楢木と妻の二人だけ。朝早くから日が暮れるまで畑に行っているため、子どもたちの世話もろくにできないこともありました。朝ごはんも海苔と納豆くらいしか用意できず、子どもたちが自分で食べて学校に行くという時期も多かったといいます。しかし、忙しい時期には子どもたちに我慢をさせていた分、収穫が終わりひと段落した時には、家族みんなでレストランへ食事をしに行くのが約束事でした。食べきれないほどの料理を注文し、みんなで食事をするのが楽しみでした。また、毎年夏にはトラックに幌をかけて、下北半島の大間や尻屋崎、津軽半島の十三湖へキャンプに行くことも恒例行事のひとつでした。
「普段はあまり面倒みられないけど、キャンプとレストランに行くのだけは毎年の行事で、子どもたちもだけど俺たち夫婦も楽しみにしてた。いい思い出だな」
りんご専業農家としてりんごに向き合いながらも家族のことは大切にする、父親としても楢木は家族ときちんと向き合ってきたのです。
楢木がわい化栽培をはじめてから、楢木の周りでもわい化栽培をはじめる農家が増えはじめ、楢木自身もこれまでの普通(丸葉)栽培の畑を徐々にわい化栽培に改植していきました。順調なりんご栽培を続けているうちに、りんごを通して人との交流が多くなった楢木は、いつしか周りから慕われる存在になっていました。弘果りんご連絡協議会の理事を務め、津軽りんご市場の開設に尽力することとなります。
弘前市にある弘果市場は、1973年(昭和48年)の開場以来、年々増加するりんごの取扱量に敷地の拡大や売場の増築などで対応してきました。楢木が所属する出荷組合も弘果市場にりんごを出荷していましたが、9月から11月にかけての最盛期には毎日15万箱ものりんごの入荷があり、敷地内の混雑だけでなく周辺道路の渋滞も招いていました。また、楢木の畑がある弘前市三和地区は板柳町と鶴田町の境界付近にあり、弘果市場までは約20kmと遠く、楢木ら三和地区の農家だけでなく、板柳町や鶴田町などの農家にとってもりんごを出荷する際の負担は大きいものでした。そこで弘果市場は、もともとりんご栽培が盛んな板柳町にりんご専門市場を開設することになり、楢木も弘果りんご連絡協議会の理事として市場と生産者との橋渡しなど協力を惜しみませんでした。1994年(平成6年)に津軽りんご市場は開場し、それに伴い設立された津軽りんご市場連絡協議会の初代会長に、楢木が選任されました。
「会長をやるっていう人がいなくて、持ち上げられて会長になっただけだよ」
楢木は謙遜して言いますが、持ち上げられるのは人望があってのこと、連絡協議会会長として、出荷組合や会員の交流、勉強会を開催するなど、りんご生産者の頼れる存在として先頭に立ち引っ張っていったのです。
自然とのたたかい
りんご農家にとって自然とのたたかいを避けては通れません。今なお語り継がれる1994年(平成3年)の台風19号『りんご台風』(※青森県りんご栽培史上最大の被害。被害面積22,400ヘクタール、被害数量38万8千トン、被害金額741億7千万円)。この時楢木の畑にはすでに防風網が設置されていました。いつ起こりうるかもしれない災害に対しての備えをしていたのですが、りんご台風はそんな備えをものともしない強烈な風で、収穫前のりんごをことごとく落としてしまいました。
「りんご台風の時はヘルニアで入院中だったんだ。だけどあまりにもりんごが落ちてしまったもんで、早く退院させてもらってりんご拾ったんだ」
なんと椎間板ヘルニアを患い入院中だった楢木は、台風による被害を妻から聞き、被害の大きさと妻の落胆ぶりに居ても立っても居られず、早々に退院し後片付けに追われることになったのです。
りんご台風はあまりにも強烈な台風だったため、防風網があっても被害が出てしまいましたが、楢木は普段から自然災害への備えをし、被害を最小限にするための努力をしています。2001年(平成13年)4月、青森県の広い地域で凍霜害が発生しました(※凍霜害としては過去最大規模。被害面積9,882ヘクタール、被害金額84億1千万円)。りんごの開花前後に霜の被害を受けると、形が悪くなったりサビが出たりしてしまいます。楢木は夜中の2時頃から畑に行き夜が明けるまで火を焚きました。気温が下がると霜がおりてしまうので、火を焚き温めることで霜の被害を防いだのです。気温の低い夜間に、広い畑の中で一人火を焚くことはけっして楽な作業ではありませんが、「自分ができることはやる、なんとしても霜がおりないようにしないと」と必死だったといいます。
2013年(平成25年)には台風18号による集中豪雨で床下浸水の被害にも遭いました。すぐそばの岩木川の土手が決壊し、自宅倉庫にあった草刈り機やフォークリフトなどが水に浸かり故障してしまいました。
「若い人は土手の上まで草刈り機を持って行ったみたいだけど、もう歳だからそこまでできなかった。今までここでりんごを作ってきて、ここまで水が来ることがなかったから、まさかって思ってたんだよな」
幸い楢木の畑はりんごが浸かるほどの浸水はわずかだったため収穫はできましたが、土手の中にあった畑は、りんごが泥水に浸かるなどの被害があったのです。長年りんご栽培をしてきて、災害への備えをしてきても突然やってくる自然の猛威。楢木だけではなくすべての生産者にとって宿命のようなものですが、自然とたたかい、自然の恵みを受け、りんごと向き合っていかなければならないのです。
2013年集中豪雨被害のあったりんご畑
りんごは生き甲斐
2021年(令和3年)現在、楢木は83歳。5年前に腹部大動脈瘤の手術を受け、その時に癌も見つかり治療を続けながらりんごを作り続けています。入退院を繰り返しながらも悲観することなく過ごしていられるのは、りんごがあるからだといいます。
「りんごを通して人との交流があったから充実してたし、りんごがあるから落ち込んでいられないし、まず生き甲斐だな」
そう話す楢木は病気があるとは思えない、生き生きとした表情をしています。これまで支えてくれた妻にも感謝しているといいます。
「親父が酒飲みであったから随分苦労したと思う。りんごのこと何もわからないで嫁に来て大変だったのに、一生懸命仕事してくれた。妻のおかげでずっとりんごを作ってこれたんだ」
妻と一緒に
頼もしい跡継ぎの存在もまた、楢木を元気づける存在でもあります。楢木は現在、妻と長女、そして孫の4人でりんご栽培をしています。薬かけや剪定は楢木がすべて一人で行なってきましたが、楢木が病気になってから長女がやってくれるようになったのです。最近ではスプレーヤーに乗ることにも慣れてきたようで頼もしく思っています。さらには孫娘も跡継ぎとして畑を手伝うようになり、力仕事をもこなす孫娘を見ては元気をもらっています。
りんご農家に生まれ、高校卒業と同時に就農してから65年。楢木のそばにはいつもりんごがありました。りんご栽培に生涯を捧げ、りんご畑を守ってきた楢木にとって引退や隠居という言葉は似合いません。自分に足りない知識や技術はどんどん聞きに行く。そうして得た知識と人脈は楢木の人生においての財産です。そんな財産を娘や孫に継承しながら、今日も楢木はりんご畑で汗を流しています。
2021年(令和3年)5~10月執筆
2021年(令和3年)11月公開