前編 後編→

商人を天職とし揺るぎなき信念を持つ男がいる。
激動の時代を生き抜き、己の身一つで北の地へと渡った男は
幾つもの試練を乗り越え時代を築き上げた。
りんごを愛し愛された男の目は今もなお輝き続けている。

File#② 鍛 恒雄 Tsuneo Kitae <前編>

 弘前市を走る国道7号線。ひときわ大きな施設が目に留まる場所があります。『キタエアップル株式会社』です。弘前のりんご移出業界において長年トップを走り続ける、地元の人なら誰でも知っている会社です。この『キタエアップル株式会社』の代表取締役会長が鍛恒雄(きたえつねお)、御年95歳です。


◯          ◯          ◯

 鍛は、1922年(大正11年)3月24日に兵庫県淡路島で産声を上げました。大正時代は日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦を経て社会が激動している時代でした。そして、昭和に入ると第一次世界大戦のバブルがはじけ、世界大恐慌を引き起こします。国民は政治が悪いとクーデターを繰り返し、いつしか軍人などから総理大臣を選ぶようになっていました。
 そんな時代の中、鍛は13歳で父親、15歳で母親を亡くし失意の中にいました。その15歳の時に転機が訪れます。身寄りのない鍛は、遠縁にあたるところに丁稚奉公として住まわせてもらうことになるのです。
 それから間もない1940年(昭和15年)鍛恒雄18歳の時、世はまさに激動の戦争時代へと突入しており、鍛にも召集令状が届いたといいます。しかし召集令状が届いた同時期、なんと電車との衝突事故を招いてしまいます。
 この時代は線路に踏切がなく、場所としては雑木林がありカーブになっている所で、電車がちょうど見えない場所でした。鍛は三輪バイク(オート三輪)を運転し、奉公先の先輩を隣にのせて踏切に進入したそうです。
「どのように衝突したのかなど、踏切に進入してからの記憶は無くてね。聞いた話だけど、そのまま近くの病院に担ぎ込まれて3日くらい意識がなかったみたいやね。治ってきた頃に教えてもらったんやけど、一緒にいた先輩は事故の当日に亡くなってたみたいでね、本当にショックでしたよ」と教えてくれました。
 鍛の症状はというと何箇所も骨折する重傷で、体中に包帯が巻かれていたそうです。針金で骨を固定し、激痛の走るリハビリが休む間もなく続きました。傷が治ってもなかなか元のように手足を動かせず、当然軍隊に行けなくなってしまいました。
 それから2年後の1942年(昭和17年)、日本軍が劣勢に陥ってきた頃、軍隊はますます人手不足となり、満足に体を動かすことのできない鍛の元へ、再び令状が届いたといいます。今度は兵士としてではなく、衛生兵として戦場に召集されることになるのです。

 鍛が召集された戦地は、河南作戦(※日本側の投入総兵力50万人、作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、日本陸軍が建軍以来行った中で史上最大規模の作戦)が実施された中華民国。この河南作戦において、鍛が所属する部隊の戦路は北京から洛陽(約700km)でした。毎日何人かの兵士が戦死をし、鍛ら衛生兵はこういった戦死者を現場で収容する任務がありました。戦死者の亡き骸は、内地(※大日本帝国憲法時代、沖縄と北海道を除く日本のことを指して内地と表現されていた)に送ることが難しいため複数の兵士が一緒に火葬されますが、火葬される前に小指だけは本人のものとして隊に持ち帰り、内地の家族のもとへと送ったといいます。野戦病院では患者のために食事を用意するのですが、体力がなく口にすることができない人は数日のうちに亡くなり火葬されます。戦地ではなく野戦病院で亡くなった方の場合は、間違いなく本人の遺骨として家族のもとへと送ることができたそうです。衛生兵として鍛は、戦死者の亡き骸を大事に扱うことに心がけました。この戦死者と向き合う中では、様々な人がいたといいます。「亡くなった方の遺品の中に名刺があって、何々会社の常務とか専務とか社長とかの肩書きの人もいてね、内地の家庭であれば手厚い看護が受けられて助かるかもしれないのに、一兵卒(※なんら特別な立場にもなく、大勢いる中の一人に過ぎない)ではどうにもならないんですよ。本当に残念で気の毒でした」鍛はその時のことをこのように振り返りました。
「電車との衝突事故があって衛生兵にとられたけど、今思えばそれが運命で帰ってくることができたと思います。兵隊として行ってたら戦場にとられて死んでたかもしれません。事故が起こったおかげというわけではないけど、戦場に立ち会わなかったから終戦で帰ってこられたと思っていますよ」と、しみじみと語ってくれました。

りんごとの出会い

 終戦を迎えた1945年(昭和20年)、鍛恒雄23歳。鍛が戦地に行ってから2年半で終戦となり、復員して淡路島に帰ってきました。戦後の混乱期の中、日本国内では物資の絶対量が不足していました。絶対量が不足すると当然物価が高騰(インフレーション)します。この物価高騰により日本政府は、物価の安定を確保して社会経済秩序の安定を維持し、国民生活の安定を図ることを目的として、物価統制を発令します。物価統制の発令によって物資や食糧が手に入りにくくなり、都市部では深刻な食糧不足に陥ります。政府からの食糧配給もありましたが、配給のみでは生きていけず、餓死する人も多数出ました。このような世の中になると、人々は違法行為と知りつつも農村へ買出しに出かけます。商売っ気のある人は食料の買付けをするようになり、各地でヤミ市ができていました。商売っ気のあった鍛も、いつしかヤミ市に食料を卸すようになります。米、魚、野菜、果物となんでも買付けました。そんな中、長野県へ買付けに出かけたときに、りんごと出会います。りんごの買付けが特に儲けることができ、いつしかりんごを専門とするようになります。鍛は「当時はヤミやからね、このりんごを買付けしたときに何度か警察に事情聴取を受けちゃってね」と笑いました。それでもりんごの買付けをやめることはせず、その後も何度か長野に行ってはりんごを買付けました。そんな中ある考えが生じます。これまでは小口での取扱いしか出来なかったが、もっと大量に効率よく運ぶ方法はないかということでした。そこで商売仲間に相談すると、「青森ならりんごを貨車で運べる。青森に行ったらどこにでもりんごはあるし、青森行ったらいい」と言われ、この時に青森に行くことを決意したと言います。この決意が青森の地を踏むきっかけとなったのです。

 青森へは汽車で向かいました。その汽車の中で、りんごなら弘前が一番という話を聞いて、弘前に向かうことにしました。その当時のりんご買付値は1箱300円。当時、銀行の支店長の給料が月額700円~1,000円なので相当高価なものでした。それを貨車に300箱積んで神戸まで運びます。この時のことを鍛は「この時全財産が80,000円しか無くてね、300箱積んだら合計が90,000円でしょ。でもね、80,000円しかないんやけどどないしましょと頼んだら、次に払ってくれたらいいからと言ってくれてね、弘前人の人情を粋に感じましたよ」と感慨深げに語ってくれました。
 こうして月に1回ほど青森までりんごを買い付けに来るようになります。当時はまだヤミの経済で見つかったら没収されるという綱渡りの状態でしたが、運も味方につけ没収されることはなく、弘前と神戸の往復を2~3年続けました。当時1箱300円で買付けたりんごは1箱400円で売れたそうです。そんな商売を続けていましたが、いつまでもこういう状態が続かないだろうという不安を抱えていました。

 不安の根底にあったのは、鍛が幼い頃の日本経済です。大正時代の第一次世界大戦中は、物資等を運んでいた船会社の事業が活発で、一時は船成金とも言われる会社もあり好景気でした。しかし第一次世界大戦が終わると不況に陥り、倒産に追い込まれた会社も多くあったことから、戦争が終わると経済も変わり景気が悪くなるのではないか、また同じような道をたどるのではないかと危惧していたのです。そこで鍛は、この先の経済状況を見越して、財産を現金・株券・不動産の3等分にし、財産を守ろうしました。間もなく鍛の不安は現実となり、物価統制が解除されます。ドッチラインと呼ばれるディスインフレ政策立案による通貨の収縮により、「安定恐慌」と呼ばれる不況に陥りました。鍛の読み通りの経済になり、3等分した財産の中でも株に関しては結局のところだまされてなくなってしまい、現金と不動産だけが残りました(神戸にあった不動産は、現在は売却済み)。「僕も若かったのだろうね」とだまされた時のことは苦い経験だと言います。そして不況に陥った中、物価統制が解除されたことで、今までのようなヤミ商売はできなくなりました。これまでは統制されていたことで決まった金額での商売ができていましたが、統制が解除されたことで自由に商売ができるようになると、もっときちんとした商売をしなければ生き残れないと考えました。そこで生き残るためにはどうすればよいか、悩みに悩みました。その後、鍛は一つの結論を出します。それは、「青森でりんご屋をやる」ということでした。3等分した財産のうち、株は無くなってしまいましたが、現金と不動産が残ったので、この残った財産でりんご屋をやろうと考えたのです。これまでりんごを買い付けに弘前と神戸の往復を続けてきたことで、「僕の天職はりんご屋だ、これしかない」と思ったといいます。知人にも相談したところ、「儲かったら帰るという出稼ぎ根性では成功しませんよ。青森の土になるという気持ちでなければ、りんご屋で飯を食っていけませんよ」と言われ、青森で骨を埋める決意をしたのです。

りんご屋として出発

 1950年(昭和25年)鍛恒雄28歳の時、平賀駅前に鍛商店として創業を開始します。なぜ平賀にしたかというと、当時弘前にはりんご屋が何軒もあり、貨車を確保するのも大変でした。そうした状況の中でライバルの多い弘前よりも平賀の方が良いということと、平賀の駅では木取りやモミガラを貨車で着けると、その貨車に自分のりんごを優先的に積むことができたということ。また、りんごを貨車に積むためには駅から近い場所が良いということで平賀駅前に店を構え、平賀駅の近くに倉庫を建てました。当時は冷蔵庫もなく、モミガラをクッション材にして木箱にりんごを詰めていました。そして冬の時期に売るりんごの保存はというと、雪でりんごを覆う雪室を利用していました。この頃から鍛は冷蔵庫について勉強し、りんごを長期的に商売としてやっていくにはどうしたらよいかと考えるようになったといいます。さらに、りんごの詰め方についてもこだわりを持っていました。当時、選果機も形状型、重量型の2種類ありましたが、どちらにしても一長一短で、結局最後は目で確認していたそうです。「きれいにりんごが詰まっていた方が買ってくれる人も喜んでくれるしね、細かいことだけど、一ミリ単位のところも気を使ってしっかり詰めましたよ。詰めるときは周りの人の詰め方なんかはよく見て勉強しました」と語ってくれました。人により詰め方も色々でどれがいいということはありませんでしたが、鍛は少しでも高値で売れるようにと、こだわりをもって詰めていました。当時のりんごは相当高価なものでしたので、箱を開けた時のりんごの見え方が重要でした。買う人のことを考えて、積み下ろし作業のしやすさも考慮し、どの程度まで積み上げればいいかなども気を配っていました。このような気配りと行動力が今後成功していく鍵となっていくのです。
 この時、家族は神戸で暮らしていました。子どもも寒い青森よりも神戸で勉強する方がいいだろうということで、今で言う単身赴任の状態で鍛は独り、鍛商店を切り盛りしていったのです。

 当初はなかなか順調にはいきませんでした。いわゆるよそ者である鍛に周りの目は冷たく、妨害にもあったといいます。道路から倉庫に行くまでの通路は狭く、隣家の軒先が出ていたため、トラックが入るときに軒先を壊すことがありました。壊したら弁償していたのですが、よく考えてみると、官地である道路にはみ出している軒先が悪いのではないかと思い、抗議しました。近所の人にも間に入ってもらい話し合いをしたのですが、その際、間に入った人には「悪いが青森の人間は青森の人に味方しないといけない。あなたの理屈はわかるけども味方はできない」と言われたそうです。「平賀にいたときは人間関係には苦労しました」と、この時のことを振り返りました。
 また、冬の寒さにも驚いたといいます。冬にりんご生産者を訪ねたときには猛吹雪に遭い、一寸先も見えず前にも進めない、いわばホワイトアウトを経験しました。青森の人間は『ホワイトアウトは息もできない状況』というのは常識で誰もが経験していることですが、当時の鍛は、「よくこんなところで生活しているな」と思ったそうです。淡路島や神戸とは全く違う気候に驚き、ここで生活している人の力を感じたのです。今では「弘前の冬はこんなもんですよ」と当たり前のように語ってくれますが、当時はその寒さにも苦労したそうです。

平賀鍛商店にて

平賀駅前で鍛商店を始めて5年経った1955年(昭和30年)、鍛商店そばで火事が発生し、周辺を焼けつくすほどの大火事となり、この大火事によって倉庫を焼失してしまいます。ショックを受けましたが、火災保険に加入していたため保険金が入り、それまで商売をやってきた経験と実績から、諦めることは考えず、また何とか建て直そうとします。この時に将来の事を考え、手広くやっていくには弘前の方がいいだろうと、この際弘前に移転することを考えました。
移転先に選んだのは弘前市東和徳でした。理由としては弘前駅に最も近く、当時の土地の相場では最低限で済むということ。また、将来的にりんご屋を営業するには何坪必要かりんご屋の先輩に相談したところ、大体3,000坪位あればよいとの事で、道路を挟んで800坪と2,000坪ちょっとの空き地があり、「ここなら何とかやっていける」ということで、東和徳に移転することにしました。この移転の際には、念願であった冷蔵庫の建設を行うことも決めました。この冷蔵庫建設は、りんご屋の中では一番早い建設となります。鍛恒雄33歳の時でした。

病 魔

 弘前市東和徳に移転してから2年後、神戸に里帰りした際に、夫人に勧められ検診を受けることになります。これは体の調子が悪かったからではなく、たまたま身内で病死による不幸が続いたことで、夫人から「お父さん、親戚に胃がんで2人も亡くなった人がいるのですよ。お父さんもお酒ばかり飲んでいるんでしょうから、一度医大にでも行って診てもらったらどうですか」と言われ、念のための検診でした。その検診で、なんと肺結核を患っていることがわかったのです。戦前戦中は「不治の病」とも言われた肺結核です。この頃は抗菌剤による治療も行われており、回復する患者もいましたが、あろうことか鍛の病状は重症で、医者からは「こんな悪い人は最近見たことがないよ、よく歩いているね。すぐに入院するように」と言われたそうです。それまで自覚症状もなく元気に過ごしてきた鍛ですが、「医者からそう言われるとなんだか体調が悪いような気もしてね、おかしなもんやな」と、その時のことを振り返り、苦笑しました。こうして神戸の療養所に入院することになりました。しかしこの重病にも関わらず、自覚症状がない鍛はすぐにりんごのことが気になり、ここにいても何もできないので弘前に帰らせてくれと医者に退院の申出をします。医者はとても今は動ける状態ではないと反対しましたが、弘前で入院することを条件に退院の許可を貰い、なんと弘前に帰ってきたのです。

 それから弘前で治療をしながら、りんごの商売も行っていました。当時、結核の特効薬と呼ばれていた薬も効果があるのは6ヶ月までと言われていました。神戸で特効薬を服用してから3ヶ月を過ぎた頃、少しずつ自覚症状も出始めました。この時、あと3ヶ月で死ぬかもしれないと死を意識し始めます。鍛はここでようやく「やっぱりこのままだといけない。ここ(弘前)にいてはいけないな」と、病と真剣に向き合う決意をします。その時頭をよぎったのは、片時も頭から離れることのなかった冷蔵庫のことと、神戸にいる家族のことでした。冷蔵庫は弘前の商業組合に貸して、貸したお金が入ってくれば借入金の返済や従業員のことも何とかなるだろうということで、何年掛かってもよいという気持ちで神戸に戻り、家族のそばで治療を受けることにしました。

 神戸で再入院した部屋は重症患者ばかりの部屋でした。鍛は「こんな重症の人と同じ部屋なら僕が悪くなってしまう。もっと軽症の部屋に変えてください」と医者に頼みましたが、「鍛さんの今の状態はこの部屋の人たちと同じ症状ですよ。良くなったら軽症部屋に移ることができますので、今は安静にして体力をつけるのが一番です」と言われ、鍛はハッとしたそうです。「僕はこの部屋の人たちと同じくらい重症なんだ」と。これまで病と真剣に向き合わずにいた自分を反省し、「よし、僕は日本一医者の言う事を聞いて、日本一安静にするぞ」と、医者に言われるがまま、体力をつけるため安静にすることを決めました。
 重症部屋は、医者も看護師もマスクをして目だけが見える状態で来られるため、自分がいかにも重症であると自覚させられたといいます。そんな重症部屋にいても夫人は毎日お見舞いに来てくれたそうです。ところがマスクもせず、鍛が飲んだコップでお茶を飲んだりしていました。それを見た鍛は、「マスクもせずに来て僕の飲んだコップでお茶を飲むなんて、うつったらどうするんだ。お前だけでなく子供達にもうつると一家全滅でないか」と言ったそうです。それを聞いた夫人は「その様な弱い気持ちだから駄目なのよ。人間には自然に治る力があるのですよ。私の姉が同じ肺結核で入院して亡くなりました。その家系のせいかわかりませんが、私にも少し陰が残っていますけど大丈夫です。弱い心を捨てて、何年かかってもよいので頑張ってください」と言ったそうです。この言葉を聞いた鍛は涙が止まらなかったといいます。当時のことを思い出しながら鍛は、「もし僕が反対の立場だったら同じコップでお茶は飲めないと思うなあ。だからね、それから家内には頭が上がらないんだよ」と苦笑いして語ってくれました。

病床の鍛恒雄

感謝の心

 それからまた2ヶ月が過ぎた頃、体はだんだん弱っていくのを感じるようになります。そんな中、ある雑誌を読んでいると、肺結核患者に有効な民間療法の記事を目にします。ごま油を吸って肺に送り込むという治療法です。この時のことを鍛は、「この治療法を医者に相談してみたら医者は反対だって言ってね。医学としての治療法じゃないから当然と言えば当然やね。でもね、なんか治るような気がしてね」と思ったそうです。こうして藁にも縋る思いもあって、鍛はその民間療法を試してみることにしました。すぐには効果が出ずに半信半疑ではあったものの、治るような気がした自分の勘を信じながらその後も毎日続けてみました。それから1年が過ぎても結核菌は無くなっておらず、これはインチキではないかと記事を書いた会社の社長を呼び、直接聞いてみました。すると「旦那さん、おたくの症状が悪すぎますので時間がかかります。時間がかかりますけど必ず菌が無くなりますから今一度続けてみてください」と言われました。直接話したことで一理あると納得でき、この療法を継続することにしました。
 それからさらに6ヶ月程経過した頃、検査の結果なんと結核菌がなくなったことがわかったのです。自分でも信じられませんでしたが事実菌が消えたのです。医者にも奇跡だと言われるくらいの事です。

 電車との事故でも生き残ることができ、戦争の時も兵隊ではなく衛生兵として戦地へ赴いたことで生きて帰ることができ、そして今回の出来事。「僕は神様に生かされているのかと思ってしまうよ」と、不思議な感覚があったそうです。
 こうして鍛は順調に回復していき、病室もだんだん病状の軽い部屋へと移動していきます。ある日、中症部屋の病室へと移動した際、同室の隣りの人がぜんそくの人でした。その人はよく咳込んでいて、その咳が異常に気になりました。その咳を聞くたびに胸がカァっとなり、その人がトイレなどでいなくなって咳が聞こえなくなると胸がスーっとして治ります。その人が戻ってきて咳が聞こえ始めると、また胸がカァっとなりムカムカもしました。さらには夜も眠ることができなくなり、「安静にできない」と医者に言うと、症状も良くなってきたということで軽症部屋へと移ることになりました。
 軽症部屋では2、3日は快適でしたが、すぐそばを電車が走っていました。こうなると今度は電車の音が気になり出します。電車が通るたびに胸がカァっとなるのです。せっかく部屋を移って静かに過ごせると思っていたのに、電車の音がうるさくて安静にできないと思っていました。このことを医者に相談すると、ノイローゼじゃないかと言われたそうです。その医者は鍛にある人を紹介します。その人は宗教法人の方だったそうで、鍛にこんなことを言ったそうです。「感謝の気持ちを持つことが大事なことです。あなたには感謝の気持ちが足りません。自分のことしか考えていないし、自分さえ良ければ良いのだという気持ちだから音が気になるのです。自分本位だからです。人のことを考えないからそういうふうにならざるを得ません。まず、人の心を感じるようにしましょう。電車というのは音はうるさいかもしれないが、なくてはどうなるか。電車のおかげで米、野菜など食料や人を運ぶことができ、生活が向上しています。仕事がスムーズに進むため、生活の向上のため、欠かせないものです。電車のおかげで食事もできているということを忘れてはいけません。みんなのおかげで生活できている。みんなが良くないといけません。それを勘違いしないよう、日々感謝の気持ちを持ってください」と。

 それからこの言葉を胸に、電車が通るたびに「感謝。感謝。ありがとうございます」と念仏したそうです。毎日、四六時中続けていたその一週間後、パーッと光が差した様になり、なんと電車の音が気にならなくなったのです。電車の音がスーっと聞こえるようになりました。この感謝の心を持つということは、この経験から今でも忘れずにしているといいます。
 その後、体も心も完全回復し、肺結核を患ってから3年後の1960年(昭和35年)、ようやく退院することができました。

病床からの復帰

 入院中の3年間、商売は完全休業していました。休業中は体調だけでなく、りんご移出業界も不振の時期でした。退院の翌年となる1961年(昭和36年)、鍛は弘前に帰ってきました。復帰したこの年は、りんご移出業界のこの3年間が嘘だったかの如く、盛り上がりを見せ始めようとしていました。周りの人たちからは「鍛さんが休んでいる間はアク抜きをしたようで、本当に売れない時期だったよ。今年はりんごも動きそうな気配があるし、こんな時に復帰なんて鍛さんはすごいね」と言われたそうです。鍛は「振り返ってみると運に恵まれていたと思いますね。電車との衝突事故で大怪我したにもかかわらず助かった。そのおかげってわけじゃないと思うけど、衛生兵として戦地に行って銃撃戦を免れた。病気が奇跡的に治って、その3年の入院期間中はりんご移出業界も不振な時期であった。この経験がなかったらここまで会社は大きくなってないですよ」といいます。

 療養中の3年間はりんご移出業界も不振な時期でしたが、鍛はそれまでの経験から、復帰するときにはりんご移出業界の景気も良くなると確信を持っていました。先見の明を持っていたとでも言うのでしょうか。その読み通り、りんご移出業界は盛り上がりを見せ始めました。しかしながら他のりんご屋の経営状況は、3年間の不振の時期が足を引っ張り厳しいものでした。鍛商店も3年間休業していたため、銀行の融資が問題でした。当時、銀行融資には借入枠がありましたが(現在も同様)、3年間休業のブランクもあり、どの程度の理解を得られるのか心配もありました。そこで融資担当の方と色々とりんごの話をしました。鍛は「りんごの商売は損をした明くる年は必ず挽回出来ますから」と信念をもって話し、必死に増資をお願いしたそうです。すると、鍛には将来性があり見所があると見込まれ、銀行からの理解を得ることもでき、なんと借入枠の2倍~3倍の額を融資してもらうことができたのです。高度経済成長期真っ只中の時代とはいえ、将来性があると見込まれ借入枠の2倍~3倍の額の融資を受けたのは、鍛と他一人の計二人のみだったと言います。この時のことを、「うれしかったねえ、将来性があるって言われたときは」と当時を振り返りました。自分は3年間も病気で休業していたのに、借入枠の2倍~3倍もの融資をしてもらい、ますます頑張って期待に添わなければと思いました。そして融資を受けたこの年、幸いにも鍛の読み通り好成績を残すことができ、この先の見通しも良いとの評価をしてもらい、信用も倍増したのです。

→後編

2017年(平成29年)2~3月執筆
2017年(平成29年)4月公開

プロフィール : 鍛 恒雄(Tsuneo Kitae)

1922年(大正11年)3月に兵庫県淡路島で生まれる。終戦後から商売人として食料を卸すようになり、その後りんごを専門に買付けるようになる。1950年(昭和25年)、平賀駅前にりんご専門業者鍛商店として創業開始。移転等を繰り返しながら商売の幅を広げ、1980年(昭和55年)にキタエアップル株式会社と社名変更する。りんご移輸出業・りんご通信販売業を営み、冷蔵倉庫の技術向上、管理・運営に力を注ぐ。現在は代表取締役社長を長男に譲り、代表取締役会長として会社経営を担っている。

■各団体経歴(2017年(平成29年)現在)

弘前りんご商業協同組合
1989年(平成元年)7月~1994年(平成6年)7月理事長
2001年(平成13年)7月~2015年(平成27年)7月名誉理事長
1975年(昭和50年) 7月~現在理事
青森県りんご共販協同組合
1966年(昭和41年)10月~1975年(昭和50年)5月監事
1975年(昭和50年)5月~現在理事
青森県りんご商業協同組合連合会
1981年(昭和56年)8月~1989年(平成元年)8月理事
1989年(平成元年)8月~1992年(平成 4年)8月副会長
1992年(平成 4年)8月~1998年(平成10年)8月理事
1999年(平成11年)8月~現在理事
青森県りんご対策協議会
1987年(昭和62年)8月~1988年(昭和63年)6月理事
1988年(昭和63年)6月~1992年(平成 4年)8月専務理事
2004年(平成16年)8月~2007年(平成19年)8月理事
弘果りんご買参人共進会
1989年(平成元年)7月~2001年(平成13年)6月会長
2001年(平成13年)6月~2005年(平成17年)6月名誉会長
2005年(平成17年)6月~現在理事

Page Top