第60号 新世界・オーストラリアへの旅
北欧の秋、日も短くなりつつある10月、南半球のオーストラリアへと旅行に来ました。スウェーデンから地球の反対側、はじめインターネットで航空券を調べてみたら、飛行機の乗換えで30時間の距離と遠いところだなとつくづく思いました。ヨーロッパから日本までは飛行機で10~11時間、更に東京からオーストラリアのシドニーへは9時間程と、日本経由の方が飛行機代がちょっと高くなるけど楽では、と家内と話し合いました。もっとも、内心では美味しい日本食が食べれる、と思ったわけですが。
オーストラリア大陸は日本の20倍以上の大きさです。ところが人口は約2千4百万人と日本の約5分の1、ヨーロッパやアジアに比べてとても少ない国です。今まで一度も訪れたことが無いのでとても興味がありました。最初に着いた都会はオーストラリアの玄関とも言えるシドニー。オペラハウスで有名なオーストラリア第一の都市で、人口は5百万人弱と、東京やニューヨークを思わせる大都会です。港町、入り江が中心部まで深く入っていて、美しいオペラハウスと共に巨大なハーバーブリッジがとても印象的でした。また、街の中心部には高層建築が目立ち、今更ながら世界都市と感じました。
街を歩いていたら、意外と中国人や韓国人、日本人と思われるアジア人が目立ち驚かされました。確かオーストラリアは1960年代末までは黄色人の移民を禁じられていた白人移民国と思っていたので、現在多数のアジア人を目前に、少し驚かされた次第です。もっとも、もしかしたら、彼らの多くは旅行者や学生、またアルバイト等で一時的に滞在している人が大半なのかもしれません。反面、若い人々が大変多く、最初に泊まったシドニーの宿は安く、ユースホステルのようなバックパッカーズ(バックパッカーのための宿)でした。もっとも我々は個室でしたが、世界中から若者達が集まっていました。我々の泊まったバックパッカーズでは、さらに旅行案内と職業安定所の事務所を設けていて、訪問者達の応対をしていました。
オーストラリアの公用語は英語ですが、シドニーは未だ、地方に行くとオーストラリア語とでも言うのか凄くクセのある英語で、時々私は理解できず、家内に聞き返してもらってもやっぱり難しかったりしました。もっとも標識や説明は英語なので、問題はないのですが。
人々はとても親切で話しかけやすく、時々地図を片手にちょっと立ち止まっていたら、「手助けしましょうか」と幾度か尋ねられました。旅行者と共にカフェやレストラン、売店などを訪れると、ウエートレスなどは若者が大変多く、皆ハツラツと元気に笑顔で話すので、つい嬉しくもなりました。一度、カフェでとても分かりやすい英語で注文を問われたので、イギリスからですかと聞いたら、バルセロナ、スペインからですヨとの返事でした。今更ながら世界の若者達が集まり、アルバイトをしているなと感じました。そう、後日シドニーから約500キロほど北上したオーストラリア第三の都市ブリスベン(Brisbane)へ行ったとき、飛行機へのバスの中で若いドイツ人の旅行者に会い、話してみたら、オーストラリアは物価が高いのでアルバイトをしながらでないと旅行ができないと説明してくれました。彼女は北ドイツのハンブルク大学の学生で、ドイツ人の若者達も沢山オーストラリアに来ていると説明してくれました。
シドニーではハーバーブリッジを歩いて渡り、植物園を見たりしながら、夕方はオペラハウス近辺でビールを飲み数日楽しみました。シドニーの後は、グレイハウンドバスを利用して3,4日程かけブリスベンへ。途中ゴールドコースト(黄金の海岸)と言われる海岸で海水浴を楽しみました。もっとも太平洋からの波で流されるのではと思う程の大波でしたが、反面、海岸は砂と言うより白い砂粉で、歩いているだけでもゴールドコーストは凄いと思いました。
ブリスベンの後は更に北上し、世界最大の珊瑚礁群グレートバリアリーフの基地ケアンズ(Cairns)へ。ブリスベンからケアンズまでは1700キロ程の距離ですが、飛行機で2時間ちょっとで着きました。ケアンズは熱帯雨林地への足場で、レンタカーで1時間ほど北上し、フェリーで川を渡ったらそこはうっそうとした熱帯雨林地でした。ケアンズの町では散歩をしていてもペリカン、色とりどりのオウム、大コウモリなど、沢山の珍しい鳥が見られ、更にケアンズからクルーズで珊瑚礁の島へいくと、青々とした海の色、スノーケリングでも簡単に沢山の熱帯魚が目の前を泳いでいくのが見られ、突然ウミガメとエイが足下近くを泳いでいったのには驚かされました。
オーストラリアは自然の美しさと共に動植物の宝庫。そして人々が世界中から集まり、新世界を作ろうとしている新大陸かもしれません。広大な大地と共にいかに自然、動植物と人間が共存していくかが今後の課題でしょう。
2015年10月27日
スウェーデン在住、弘前市出身、工藤信彰